ジョルジュ・ルオーの絵〝ヴェロニカ〟について
ルオー作〝ヴェロニカ〟について
私はキリスト教徒ではないが、ルオーの描くキリスト教の原風景の一連の作品がとても好きだ。
その中でも〝ヴェロニカ〟は(まだ本物の原画は観ていないが)画像をみる度に魂が震える。
そこに描かれているものはキリストそのもではないが、キリスト(私が聖書で読み、イメージしたイエスキリスト)の臨在を感じる。
ルオーは自分のことをこう言っている。
ーみすぼらしい私はヨーロッパ人であるという抱負も、全世界の市民であるという自負ももたない。ー
ー昔のステンドグラス絵師の小さな徒弟ー(以上〝ジョルジュ・ルオー芸術と人生〟座右宝刊行会出版 ~フランスの顔より 武者小路實光訳から引用)
このようなルオーの非常に謙虚な、静かな、信仰者としての態度が作品にキリストの臨在を実現しているのだと私は思う。
人の魂を救う絵
人の魂を救う絵がある。それは私が絵を描く者だからそう感じるというわけではなく、何かを求めて自分の足で歩く者なら全員が対象だと思う。
私にとって〝ヴェロニカ〟はまさにそういう絵だ。
ヴェロニカの物語
参考までにヴェロニカという人の言伝えを簡単に紹介したい。
イエスキリストが死に至るゴルゴタの丘に向かい、十字架を背負い、役人や兵士に囲まれて
町を歩いている時、それを憐れみ自身の身に着けていたヴェールを差し出し、キリストの額の汗を拭いたという逸話である。
作者ルオーにとってその物語を前面に出す意図はあまりないだろう。それよりも、そのような行為のできる存在への普遍的愛、そのような行為のできる存在にアクセスした結果発せられる普遍的愛が重要なのだ。
思うに、その時彼女はそのままキリストなのだ。ルオーは個人としてのキリストを描いたのではなく、物語を描いたのでもなく、具現化するキリストを描いている。この作品もまさにそうなのだ。
私がなぜこの作品に感動するかというと、そこにキリストがいるからだ。
喧騒と誤解と悪意ある洗脳と、愚かな群衆の中でも聖なる静寂は存在する。
色彩の魅力
さらにこの絵の魅力をのべると、何と言っても色彩にある。
青を基調とする静寂とそこに生きている存在のエネルギーは白が基調となり日常の敬虔さと美しい精神的生活、それがヴェールの周りの水色となり光を放つ。わずかに見える建物と赤系統の戸外の時代性、社会に臨場感をキープする。そのはざまで生きている生身の生活者としての人間は庶民的でありながら慈悲の血が通っている。
そのバランスと音楽性は神秘を湛えている。
ルオーの絵はこれからも
私はキリスト教徒ではないから教会に通う必要はない。
しかしこの絵をみることでいつでもキリストに会える。