アートとしての扇子作品
扇子はアートである
いかなる形態のものもアートとなりえる。作り手がそれをアート(芸術作品)として取り組むならば、それはアートである。
私は今回扇子絵をアートとして描いた。だからそれはアートなのである。
おそらく今後も私の扇子絵はアートとして描くだろう。
本来扇子は生活上の道具である。そこには装飾が施されているが道具であることがその存在意義のメインである。
しかしそこにアートとしての局面を加えれば、扇子は途端に表情を豊かにし始める。
なんと不思議なことだろうか。作り手がアートを宣言し、確かにそのように振る舞うだけで。それはアートとして存在感を持ちはじめる。
私の扇子絵作品
私の今回の扇子絵の作品を紹介したい。
まずは第一作。題名は現時点では確定していないが近いうちに相応しい名を決定したい。
これは奈良時代の貴婦人をモデルにしており、彼女が日没時に広大なススキ野原に立っている情景を描いた。
なぜ奈良時代のススキ野原なのか。
私は万葉集をリスペクトしている。万葉集には日本の古くて新しい本質が貫かれている。日本人としての私の琴線に触れるものが豊富にある。その万葉集全盛の時代が奈良時代だからである。
なぜススキ野原なのか。万葉集にはススキが多く詠まれている。秋の情景としてススキは日本人の心に欠かすことはできない、だからである。
これを額に入れても良いし扇子として仕立てても良い。
続いて第二作。吉祥弁財天である。世にいう弁財天とは趣を異にしているが、私にとっては弁財天である。
孔雀の羽根が広がっている。その羽根は人の世の希望であり、人々が持つ生活の美のエキスである。それをなにものにもとらわれない中心としての弁財天が放射している。それは世俗的な喧騒にある欲望ではなく、静寂の源から放出する平和の祈りである。
続いて第三作。萩の花と蝶である。萩は古来より日本人に愛されてきた花であり、万葉集にも多く詠まれている。
そこに秋の蝶を描いた。蝶は人間を遥かに超えた微細な感覚機能で花の薫りにひきよせられる。そこには確かに薫りがある。その薫りは古代から変わらぬものである。その微細な薫りは静寂とセットである。日常の騒音や社会的扇動に振り回されていては静寂は得られず、したがって薫りは届かない。
それを描いた。
扇子の可能性
今後も扇子絵は描いてゆきたい。
そこには形状としての面白さがあり、気品がある。そしてなによりも古代からこの国で愛用され続けてきた経緯がある。歴史がある。私は日本人のDNAを持つ身として純粋にそれに関わっていたい。