均一性への反逆
私の絵は均一的であってはならない
私の絵は均一的であってはならないと思っている。
ひとつには私の絵の源流が古き良き日本である事に由来している。
私が源流と仰いでいる古き良き日本は雑多であった。
芸術においても文芸においてもそれらは決して均一ではなかった。
もし、和歌に五七五七七のルール以外に全体主義的均一性を要求されてそれに従わぬ者は排除されていたとしたらどうだろう?
万葉集はこの時点で多くが駄作に堕ちただろう。
能はどうか?
たしかに現存している能楽は
その内容に似通った通念やジャンルがあり、そこだけを見ると均一性がないわけではない。
だが戦記もの、恩讐もの、歴史ものと非常に種類が多い。
その多様性こそがそこに存在感を生んでいる。
古き良き日本にはこの雑多とも言える非均一性があった。
私の絵はここが源流である。
どんな画材を使っていても、どんなテーマであっても、常にこの感覚を忘れないように気をつけている。
つまりは私は日本人だということ
つまりは私は日本人だという意識があるということだ。
全体主義的均一性を脱し、雑多なあり方のなかに
ある種の統一性を滲ませながら、様々なジャンルに携わる姿勢。
私の捉えている古き良き日本人のあり方とはこういうものだ。
手描き手づくりにこだわる姿勢
私はたとえばデジタルアートにおけるドット絵のように
いくつもの均一的な型を並べて
しかしそれぞれに独立性を持たせて(たとえば帽子や服装を変えたり、色調を変えるなど)
大量に並べてゆくというスタイルはとらない。
あくまでも手づくり、手描きを追求する。
一点ものの作品を一つ一つつくり上げていく
これが私にとっての日本人的あり方と思っているので
今後もその姿勢を崩さない。
今の世への反逆あるいは逆行
この私流の姿勢は今の社会では儲からないだろうし
目立つこともないだろう。
だけど私は日本人としての源流側に居続けることにより、
同様の源流側の人々と私の拙い作品を通じてつながってゆきたいと願っている。