フイルムカメラ アナログ
フイルムカメラをつかうのだ
親父はカメラが趣味だった。
たくさんあったカメラはすべてフイルムカメラだったけど一つだけ残った。
ドイツのローライ35だ。
私はこれを親父の形見にすることにした。
フィルムはコダックにした。
実際見てわかるように非常にコンパクトである。それが親父のいくつかの遺品のなかでこれを選んだ大きな理由の一つだ。
「これで朝陽の風景や夕陽の街を撮ろう」と思った。
動いてくれるなら。
映ってくれるなら。
そしてカメラ屋に持って行き、一か八かハラハラしながら決して安くない金を払って現像してもらうのだ。
一発勝負のフイルムが現像されたら
フイルムが焼き上がり、もしも満足できる(使える)写真があれば
それをもとに絵を描くのだ。
デジタル全盛のこの時代、なんと時代錯誤な事と揶揄されるかもしれないが
アナログあってこそのデジタルであると私は信じている。
無駄なような、もったいないような、遠回りのようなものが複数あって、苦い味が漂うが
ここにある様々なものがデジタルの俊敏さや便利さとうまく絡み合えば、
まるでカメラのスプルロケットにフイルムをかませることに成功するように
面白い効果が期待できるかもしれない。
いくらデジタル全盛といっても
最後は人の手やぬくもりがものを言うのだ。
絵の具で
筆で
絵を描き、和紙でものをつくる私はそれを心から信じる者である。
以下は最近Twitterに載せた私の詩のなかのコトバだ
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アナログがあるからこそデジタルがある
地霊は死んだのか
否
都市は地霊を封印したのか
否
否があるからこそ是がある
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